ペルー北部にあるカハマルカは、インカ帝国最後の皇帝が入っていた温泉で有名な街。その街に夜行バスが到着したのは早朝5時。バスを降り、まだ暗い街をボーっと眺めている僕に声をかけたのが、同じバスに乗っていたペルー人のダニエルだった。昔、岡山で働いていたことがあるらしく、少しだけ日本語を喋る彼と一緒に宿を探すことにした。
丁度ペルーは修学旅行シーズン。安い宿はどこも学生で埋まっていて、やっと見つけた部屋はひとつだけ。会ったばかりではあったが、一時間程度の付き合いでも、ダニエルの口調や行動には善人と信じさせるものがあり、さほど迷わず同じ部屋を借りることにした。
ここ数日は夜行バスで寝る夜が続いていたので午前中は眠りこけ、午後はダニエルと街をぶらぶら。仕事を尋ねると、貧しい子供たちに栄養食品を配ってまわっているらしい。今回もカハマルカ近郊の小さな村にそれを届けるために首都のリマからはるばるやってきたそうだ。善人。
散歩の後は小さな食堂で夕食を共にした。ダニエルのオーダーは「安いものをくれ」で、僕のオーダーは「同じものを」。出てきたものは辛くないカレーライスのようなひと皿でとても美味しかった。食後、当たり前のように二人分を支払おうとするダニエルにお金を渡そうとしたが断固として受けとらない。「君は学生で、私は働いているから」と。善人。
食後に寄りたい場所があるということで付き合うと、ダニエルの妹の夫の姉の家だった。その人をダニエルの何と呼べばよいのかわからないが、いきなり現れた異国の若者を快く招き入れてくれ、しばらくの間、小さな部屋で談笑を楽しんだ。ここにも善人。
翌日のチェックアウト時、「学生」の僕はやはり部屋代を払うことはなかった。
ダニエルと別れ、街の名物「インカの温泉」で久しぶりに湯に浸かった。心地よさに目を閉じると、家族へのお土産に街の名物チーズとマンハール(ミルクジャム)を財布の中身を気にしながら買っていたダニエルの姿が浮かんだ。この街で、僕は僕のためだけにお金を使い、ダニエルは、家族や、バスで出会った「学生」のためにお金を使っていた。「学生」の僕の全財産は、ダニエルのそれより多いかもしれないのに。
途端、ダニエルのことを「善人」のひと言で済ませていた自分が恥ずかしくなった。ダニエルが持っていたものは善悪とは関係のない何かで、それを与えられた時の心の動かし方を、未熟な僕は知らなかったのだ。
風呂上り、いつも通り生温いインカコーラは、のぼせた体を全く冷ましてくれなかったが、そのぬるさがなぜか嬉しかった。
Cajamarca, Peru, 1998